レモンパイの美味しそうな匂いがいっぱいに広がる空間。
漂う様に、そして誘われるようにそこへ着地してみれば、瞬間そこは一気に姿を変えた。
夢からはっと醒めた様な感覚。ぱちり、とひとつ瞬きをしてみれば、そこは薄暗い部屋になった。



『おや・・・・この匂いに誘われて何か来たようだな』
「・・・・・・・・・え」
『ふむ、これは興味深い。まさかこんな風にして引き寄せられるとは』
「え、なにこれ、どこここ」
『場所を聞いているのか?ここは私の研究室だが』



どこか気だるそうにそう話す男は、サングラスをくいっと上げながらそう応える。
というか話し方が眠むたそうで、とにかくこちらまで引き摺られる様なそんな感じだ。私まで眠くなってきた。
ちなみに言葉は良く分からない。多分首を傾げている所を見るとあまり通じていないのだろう。
当然だ、私は日本語、彼は、 うーん、多分英語じゃない言語を喋っているのだから。
なんとなくのニュアンスで意味をくみ取っている現状だ。
くるりと首を回して、その部屋を見てみれば、部屋の主と合わせてとても胡散臭いものがたくさん並んでいる。
な、なんなんだ、この部屋は・・・・。怪しい、怪しすぎてとにかく逃げ出したい。

そう考えた私の思考をきっちり読みとったのか、目の前の彼はにやりと笑った。あ、嫌な予感しかしない。
す、と指し示された方を見て見れば変な文様、丸がいくつも書かれた様な魔法陣ともいえるのだろうか、 そんなものがあった。そう、私がへたりこんでいるその下に。
まさか、これ、いやそんな馬鹿な。そんなアホなことがあってたまるか。



『色々とその頭で考えているようだが、正解だ。君は異世界から召喚されたのだ。この私によってな』
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや、意味分かんないですけど」



まさか夢を見ている最中にレモンパイの匂いにつられ、そして着陸したらそれが別世界へ行く扉を開いてしまっていたなんて、 信じたくても信じられない出来事だ。
つーか、私阿呆すぎるだろ、それ。下手したら虫レベルである。良い匂いにつられて、なんて。
そして今や、その信じられない事ががばがばと出てきてしまっているのだけれど。誰か助けて、と差し伸べられる手は まったくもって期待できそうにない。
実験動物を見るようなそんな目で見てくる彼は、ジョーリィ、と名乗った。うん、多分。
繰り返してその名前を呟けば、 ふ、と笑ったので多分合っているのだろう。
もうだめだ、多分とかおそらく、とかおおよそ不確定要素が多すぎて、頭は混乱するばかりだ。
ただその真意はサングラスに遮られてしまってまったく読めない。そんな人物に対して、私が深く考えても仕方がない。
名前を名乗られたのならこちらも自己紹介くらいはしておくべきか、そんな事を思いながら潔く、自分の名を名乗る。




『・・・・・・?それが君の名前か』



頷けば、まぁ、そんなに興味なさげにふぃっと横を向かれ横にあるビーカーやらの方へ歩いて行ってしまう ジョーリィさんだったけれど、くるっと向き直ってこちらへ来た。
手に、怪しげな薬を持って。 そしてそれを問答無用とばかりに止める間もなく振りかけられた。
わざとらしく声を発したものの、誰がどう見たってわざとにしか見えない。





『おっと、』
「つめたっ!!!・・・・・・・・・え、」





その手に持ったビーカーが私へと降り注がれるのを、ばっちりとこの目で見てしまった為反応もなにも あったものではない。。
そして冷たい、と感じたその直後、私の着ていたTシャツのふくらみが消えた。・・・・・・・消えた?
・・・は?・・・え?



『ふむ、異世界からきた生き物でもこの薬は効くか』
「・・・・・・・・え、ちょ、おい・・おおおおおおおい!あのジョーリィさん!?なにやってるんですか!」





もう一度言うけれど、何を彼が話しているのかはまったくもって想像できない。多分こんなことを言っているんだろうなー という楽観的な翻訳だ。 でもこの目は絶対に私を実験動物かなにかと思っている目だ。
なにより今自分の身に起こった事を私がまったく把握できていない。何か酷い事になったと呆けている私の 首元に彼の指が伸びる。いや正確には私のTシャツの襟の所にだ。
彼はそのまま何でもないかのように襟に指を掛けてくい、とひっぱり中を覗きこんだ。

思わずビンタしちゃった。





「ぎぅやああああああ!!な、なに、へ、変態!!!!!変態!!最悪っ!!悪魔か!!!!!」
『・・・・っつ!・・・・・・ふむ、身体的特徴は全て変化したか。成功だな』
「なにしてくれちゃってるんですか!!!!!!なに勝手に覗いているんです!!?」
『ふ、丁度良い実験体が現れてくれて私としてはとても満足だ』
「何言ってんのかさっぱりですけど!とりあえず私のささやかな胸を返してくださいよ・・・!!!!」
『まだこの薬は実験段階でね、まだ解除する為の薬がないのだよ。まぁそのうち効果が切れるだろう・・・』
「最低最低最低!!!!!ジョ――――リィさん!!!私貴方の事一生恨みますからね!!くそ、こんな所出て行ってやるぅううう!!!」




ぱりんっと窓を蹴破って出て行きたかったのはやまやまだけれど、足をけがしてしまいそうだったので、大人しく この研究室のドアノブを捻って、悪態をつきながら飛び出す。
どうせ言葉が分からないのだから、汚い言葉を 少々使った所でバレる訳はない。最後にもう一度最低変態最悪悪魔を1回ずつ振り返って叫んで おく。実際叫んだ所で気分は晴れないが、今こうなったすべての元凶は間違いなくこのジョーリィという 男であるので、別段気は咎めないし、ここいらで大きく反逆したって別に良いだろう。

ばっと飛び出せば、こちらへむかってくるこれまた黒いスーツの男にぶつかって呼びとめられた様な気がしたけ れどもう気にする事はない。
どうせ、何言ってるかは分からないんだし!
私はその場からすたこらと逃げだしたのだった。






*






そんな最低男から逃げ出して、数週間。
あの研究室を脱出した私は行く所がなくて、当てもなく彷徨い歩いたり していたのだけれど、男となってしまった私を不幸中の幸い、親切なおばさんが拾ってくれたのだ。
私は黒スーツの男(+サングラス)を警戒しながらそのおばさんが所有している家で暮らしだした。 そこは前にお店でもやっていたのだろうか、家と言うより、店舗兼家みたいな造りで、小さいながらも カフェかなにかをやっていけるような設備があった。

なんとも上手く行くものである、これもあれもそれも、すべて男になった私が見目麗しい感じに変化していたからだ。 た、多分ね、多分周りの反応を見るになんか優遇されている気がする。顔がいいって本当に得だなぁ。

あの男ジョーリィのせいでこうなったが、男にされた事によって得になる事も多々あったので、 なんとも複雑な気持ちだ。
周囲には男嫌いの言葉柔らか綺麗め兄ちゃんといったところで、周知されていた。
いや、実際のところは一応女の分類であるから、まぁ・・・・なんとも複雑な心持ではあるのだけれど。




くーん!リモーネパイもうすぐ焼ける?」
「はい、もう少し待ってくださいね。お待ちいただいている間にドリンクはいかがですか?」
「えー、そっかぁ。なににしようかな〜」
「こちら季節限定ドリンクですよ、お勧めです。美容にもばっちりです!」
「きゃあ!本当!?じゃあそれにする!」
「ありがとうございます」
「やーだ。くん本当にかっこいいんだから!笑顔がたまんないわ〜」





私は与えられた空き店舗でせっかくなので店をやる事に決めた。
話す事はまったく分からずニュアンスやジェスチャーに頼るしかなか ったので、とりあえず話さなくてもなんとなく分かる仕事。何かを作る仕事が良いんじゃないかと思ったのだった。
巡るめく因果とは不思議なもので、あの研究室を出る時にぶつかった黒いスーツの男からリモーネパイなるもの のレシピが書いてある紙切れが私がぶつかったタイミングで落ちたらしく丁度パーカーのフードの中にすっぽりと 入ってしまったらしい。
それに気が付かず出てきてしまった私はそのレシピを見てこれだっ!とピンと思いついたのだ。

幸いにして、おばさん曰く、リモーネパイはこの地方(レガ―ロと言うらしいが多分リモーネパイってのはレモンパイ と同じだな)ではとても人気な菓子なのだとか。
丁寧に書かれたレシピをおばさんに聞いて、材料を聞きその通りに作ってみれば、絶賛の嵐であった。 いや、多分私の顔補正ももちろん入っているだろうが。スマイルは0円だ、とりあえずそれもプラスで売っときゃ、 悪い様にはならないだろう、とりあえずスマイルスマイル!
にこりと意味ありげに微笑んで見せれば女の子のお客さんがつれるのだから、楽なものだ。にこにこ。とりあえずにこにこ。
お客さんがまばらな時には接客するうちにここでの言葉も覚えて、覚束ないながらも接客ができるようになってきた。
予想外な単語や、文はまだよく分からないけどとりあえず笑っておけばOK!
向こうもあまり言葉が自由でないことが分かるとゆっくりとこちらのペースに合わせてくれるのだから、 これまた私にとってはありがたい事この上ない。







そんな日々を毎日乗り越える事に精一杯だったある日の事だ。
その日はわりと客足もまばらで、カウンターに寄りかかって頬杖を付きながら目の前の通りを行き交う人たちを ぼーっと眺めていた。
その時私の目にぱっと鮮烈な赤い色が飛び込んできた。




「きゃあああああべりいいいいきゅううううと!やば、おばさんあの子ヤバい!!!」
「な、なに?なんだって?落ちつきなよ、あの子って・・・・・ああ」
「きゅーーーと!!!!べりーーーきゅーーーと!!えっとなんていうんだっけアモ―レッ?」






なんとかあの愛らしさを伝えたくて、思わず中学生でも使わない様な英語を連続で使ってしまったが、なに構う事はない。 おばさんはおばさんで、英語が少し分かるらしく、私が興奮しているのが分かったらしい。
リモーネパイが並ぶカウンターをばしばしと遠慮なく叩いて興奮しているのを見て店内のカフェスペースでくつろいで いる人たちの視線を感じるけれど、それどころではない。
いや、いつも爽やかキラキラぶってるから余計にそのギャップに唖然としているのだろう。 特に女性客(いや、ほとんど女性客なのだけれど)の視線が痛い。

真っ赤な髪をサイドでツインテールにして、黒いスーツ(ここが若干気になるのだが、ジョから始まる男の 知り合いじゃなければ万々歳だ)やばい!!!ドストライクである。可愛い上にカッコ良いとはなんとまぁ。
気になるのがいつも男が傍にいる事だけれど、首を傾げていれば、おばさんが親切にも教えてくれた。




「ああ、あのお嬢さんね。アルカナファミリアのボスの娘さんよ。剣の幹部だったかしらね」
「アルカナファミリア・・・・かぁ。組みたいなもん?へぇ、あんな可愛いのに強いのかぁ」
「巡回中なのかね〜。」
「わ、こっち来ますよ!ど、どうしようおばさんっ!!!どどどどおどどどうすれば・・・っ!」
「顔は良いんだから、落ちついて頑張んな」
「おばさぁああああん!!!!」



おばさんのエプロンにしがみついたものの、軽くあしらわれてカフェスペースの方へと 逃げられてしまい、私はカウンターの所でひきつった笑みを浮かべた。
遠くから見るのはすごくかわいくて堪らないのだけれど、近くに来られるととても緊張してしまう。
私はごくりと喉を鳴らした。自然に・・・自然に、いつも通りやればいいだけだ。



「こんにちは、かわいいお嬢さん!リモーネパイはいかがですか?」
「やっぱり!ここからすごくいいにおいがすると思ったの!」
「本当ですか?ありがとうございます」
「よっし、じゃあここで休憩していこーぜ!お嬢!」



わぁお。 まさかのお嬢呼びか。本当に幹部なんだなーとじっと見つめてみれば、あちらもじーっと見つめてくる。 連れの少年はまだ幼い感じで元気いっぱいといった感じだ。2人とも可愛らしい。
お嬢?なんて呼ばれて慌てて振り向くその姿も愛らしいけれど。
名前なんて言うのかな?なんて考えてから、私の思考はナンパ男そのものになって来た事にはっと気が付く。 やばい、これただの怪しさ満開の男になり下がっている。ここの地域はそういうレガ―ロ男が多いから毒されて 来たのかな?なんて思う。



「こちらお待たせしました、リモーネパイになります」
「うっわ、うまそー!お嬢、早く食おうぜ!」
「うん!」
「ありがとう。そういわれると嬉しくなっちゃうな」




そう微笑みながら言えば、2人はじっと私を見つめる。さっきから見られる事が多いけれど、私を見る人たちは 大抵は女性客ばかりなので、新鮮な気持ちだ。
見つめられたら、見つめ返してしまうこの仕事柄。もう一度にっこりと笑みを浮かべてみる。 ぽっと頬が赤くなるので、わりと分かりやすい性格なのだろうか。素直だ。
しかし隣の少年まで顔が赤くなるのはどうかと思う。今、現時点において、一応外見身体的特徴的に男だしなぁ。
でも2人に興味が沸いてきた所で、やっぱりお名前聞いておこうかな?



「フェリチータ」
「ん?お嬢?俺はリベルタだ!」
「え・・・・あっ、です。この店で働いてます」



今考えただけなのに名乗られたよね・・・? そんなに聞きたそうな顔してたかなー・・・・?
疑問符がいっぱい私の頭の上を周るけれど、疑問は解消されそうにない。
よくわかんないけど、ラッキーだった。フェリチータにリベルタ!名前まで可愛いとはこれまた反則である。



「フェリチータにリベルタ、今日はありがとう。また御贔屓よろしくどうぞ」
「うっめーよ!これ!でもなんかいつも食べ慣れているような気もするけど、でもちょっと違うなー」
「うん」
「お嬢もそう思うか?やっぱり?」
「ルカの作ってくれるリモーネパイかな?」
「そうそう!ちょっと似てる!」
「そうかもしれません。ルカさん?のとレシピが似てるのかもしれないです」



曖昧に笑って見せる。まさかあの時に落っことしたレシピを使ったとは言えない。
私は話題を変えるために、他の事柄を二人に振った。



「お2人はアルカナファミリアの人たちなんですよね」
「おう!そうだぜー!俺は諜報部なんだっ。で、お嬢は剣の幹部!」
「今日は巡回中だったんですけど、ついつい匂いにつられて・・・!」
「私最近こっちに引っ越してきたばかりで、あんまりよく知らないんですけど、なんか凄いんですね〜」
「へへっ、ここから見える大きい館がアルカナファミリアなんだぜ!」
「えっ・・・・・あ、あそこ?あのでかい建物?」
「驚いた?」



驚いたも何も、あそこのバカでかい大きな建物から私は飛び出してきたのだ。
まさかまさかまさかジョから始まる最低な悪魔がいる組に所属しているとは思わなかった。多分ジョーリィさんも アルカナファミリアの一員なのだろうか、違っていてほしい。頼むから。
あえて聞こうとは思わないし、聞きたくもないのだけれど。
でもなんか黒スーツだし、あそこの建物から飛び出してきたし、聞かなくても分かってしまったのが悲しくて堪らない。 知りたくなかった、こんな可愛い子たちがあの変態悪魔と同じ組織なんて・・・・。 冷や汗がたらりと背中を伝うのを感じながら私は空笑いをした。



「アルカナファミリア・・・・恐ろしい組織だな・・・」



どこか遠くを見つめる私があまりにアレで困ったのか、フェリチータとリベルタに心配されてしまった。 いや、2人はいい子なんだろうけど、そう私の心情的にあの人は本当にさ・・・。 遠くへいってしまいそうな意識を必死で戻しつつ、私はにこやかな笑みを浮かべて2人へと向き直る。
今度はおまけにウインクも付けちゃう。特別大サービスである。女の時だったら絶対にしないけど、 この男の姿であれば、何故か決まるのだから使わない手はないだろう。
そして私は口を開く。何故かこの組織とは長い付き合いになりそーだ、なんて考えながら。






リモーネパイはいかが?

「なー、なんかって不思議な感じだったよなー」
「神秘的な感じだったね。最近越してきたって言ってたし他の国の人なのかな」
「かっこいいけどイヤミな感じしなくっていいよな!また今度行こうぜ、お嬢!」
「うん!そうだね。あのリモーネパイすっごい美味しかったし、また食べたいな〜」
「なになに?2人でなに話してるの〜?俺も混ぜて混ぜて〜」
「パーチェ!あのね、今日行ったお店のリモーネパイが美味しかったよって話」
「すっげー美味かったぜ!お店もそこそこ繁盛してるみたいだし。パーチェは知ってるのか?」
「うーん?最近出来たお店なのかな?今度探して行ってみるよ」
「おいこらテメェ、パーチェ!!またこんな所で寄り道食いやがって、さっさと行くぞ!」
「あっ、デビトごめんごめん〜なんか美味しいお店があるって話しててさ〜」
「おばさんとっていうにーちゃんがやってんだけどさー」
「オレは男にはキョーミないぜ。まぁ?バンビーナが一緒ならいってやらねぇ事もねぇけど?」
「またそういうこと言うんだから!ルカちゃんに怒られるよ〜!」
「あいつは本当に小姑めいてんよな・・・!いい加減子離れしろよッ」








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