せめてこんな穏やかな日に世界が滅べばいいと思うよ
この世界は人という想像力豊かな生物が支配している割には、あまりにも非想像的な世界である、……と思う。
可憐無垢で美しいお姫様も、森に住む小さな妖精も、サンタクロースも魔女も魔法使いも、現実には存在しない。
それらは全て人という生物が己の「理想」や「願望」を織り込んで創りあげた想像上の生物である。
現実は思った以上に解りやすくて明快だ。
姫は歌で小鳥を魅了できないし、妖精はフィルムにも人の目にも映らない。サンタに至ってはただの不法侵入者である。
ましてやホウキに乗って飛ぶ魔法使いなんて論外だ、論外。
だから現実主義者はそれらの実証不可能な想像を「妄想」と呼び、存在しないと切り捨てる。
それを悲しいとか、寂しいとかは思わない。世の中ってそんなものだ。
そんなファンタジー思考を幼稚園で切り捨てたあたしは今、湿った土の地面に裸足で立っていた。
夕闇はとうに過ぎ去って、無数の星が頭上に輝いている。見慣れた都会の空とは違って、満天の夜空だった。
雨上がりの土や草の、独特だが不快ではない柔らかな匂いが鼻をかすめる。
びゅう、と強い風が吹いた。今は初秋のはずだが、風は予想以上に冷たかった。
……いやいや。
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。
あたしは軽く頭を振って目を閉じた。……何だこの状況は。
風になびく髪をそのままに、目を閉じたまま足の感覚へ意識を集中する。
指に力を入れると、柔らかい地面を抉るようなねちゃっとした感覚が足の裏から伝わってきた……いやいやいやいや!!
おかしいおかしい!あたしさっき普通に部屋にいたし!夢だなコレは!
両手を頬に当てて、素早くぎゅっと頬をつまんだ。めいっぱい、あらん限りの力を込めて。
すると瞬時に両頬に鈍い痛みが走った。強くつねり過ぎて涙まで出てくる。……めっちゃ痛い。
ちっ、やっぱ迷信か。誰だ夢ならつねっても痛くないとか最初に言った奴。痛いじゃん夢なのに。嘘つきじゃん。
夢夢、これ夢だからね。あたし今寝てるからね多分、ベッド入った記憶ないけど多分立ったまま寝てるから。
目を開けて周囲を見回してみる。空は満天の星空で、目の前には大きな湖があった。
満月でもないのに月明かりは眩しく、空に浮かぶ三日月の光が風で揺れる水面に映っている。幻想的な景色だった。
耳を撫でる風の中にザワザワと葉が揺れる音が聞こえて、真後ろへと振り返る。
背後の景色は森だった。視界に映ったのは鬱蒼と茂る大きな木々と、そしてその奥に輝く大きな城。 城!?
開いた口が閉じぬまま、まるでディズニー映画のようだ、と思考の端で考える。
ちゃーらーらーらーらーとお決まりの音楽で、城の上で光が弧を描くような、そんな雰囲気さえある大きな城。
どうやら廃城ではないらしい。窓からは無数の光が漏れていた。
……これは、もしかして行く的な展開なのかな。
行くべきなんだろうな…。なんとなくそんな予感がしてため息が漏れる。……あぁ、早く目覚めてあたし。
何故こんな夜中に夢の中で、しかも裸足で意味不明な城を目指さなければならないのか。ロールプレイングかこれは。
歩き出す前に美しい湖を振り返って、もう一度ため息。…けれどここで立ち尽くしていてもどうしようもないし、何より寒い。…夢だけど。
ま、夢ならいつか覚めるだろう。そう考えて、裸足のまま一歩踏み出した。
ぬかるんだ地面の感触が足の裏から直接伝わって、うえぇ、と小さく呟いた。
嫌にリアルな感触だ。夢のくせに。なんて悪夢だ。あたしってこんなに想像力豊かだったっけ?
3度目のため息のあと、あたしは空に向かってぽそりと情けない声を吐き出した。
あぁ、もうホントに、
「……だれかたすけてぇー」
バシッ!
その呟きに応えるかのように、突然大きな音が響いた。何かを石の床に叩きつけたような、そんな音。
ぬかるんだ地面と木々のざわめきの中では、その音はあまりに場違いだった。驚いて一瞬身体がびくりと震える。
音の正体を突き止めようと辺りを見回すよりも早く、目の前に黒い人影が現れた。
その影は一瞬よろめき、身体を支えようと慌てて地面を踏みしめた。その足はあたしとは違って、黒く光る靴を履いている。
影は、男だった。
黒のズボンに、黒の……ローブ、というんだろうか。裾の広がった前開きの長い羽織を着ている。
ブロンドの髪はオールバックで整えられており、鼻筋の通った細めの顔立ちは、どう見ても日本人のそれとは違う。
薄暗い月明かりの中で、男の肌は白よりも白く、透き通りそうなほど儚い色に見えた。
男は周囲を見回そうとして逸早くこちらに気付き、そして戸惑いを含んだ灰色の瞳と視線が交わった。
途端に、どき、と心臓が跳ねた気がした。
あ、かっこいい。
驚いて声も出ない状態だと言うのに、あたしは脳みその隅っこでそんなことを考えた。
視線を合わせたまま、あたしとその男はしばらく口が利けなかった。
開きかけた口は出すべき言葉を見つけられず、喉の奥がすっとすぼんでいくような感じがする。
男は裸足の不審人物を警戒しながらも、驚いた顔で周りの景色に目をやった。戸惑いを隠そうともせず、その表情は不安に覆われる。
あぁ、わかるよその気持ち、意味わかんないよね、うん、あたしもおんなじだよ。
そんなことを思いながら、落ち着いてきた喉から声を絞り出そうとする。
兎にも角にも、今のこの状況に光が差したような気分だった。1人きりで心細かった不安が少し軽くなる。
なんか突然現れてたけど、そんなことはこの際気にしていられない。これは、どうせ夢なんだから。
「…あのー……」
控えめにそう声を掛けると、男は予想以上に驚いた様子でこちらに視線を戻した。
さっと一歩後ずさり、あたしより遥かに大きな声量で何かを叫んだ。その叫びは耳慣れない言葉で耳に届く。
英語!?
ぎょっとして、裸足の足を一歩引いた。あ、いや、確かに外国の人っぽい風体だし、そりゃ英語だろうけど!
ある程度の英語は授業で勉強しているけど、所詮高校1年止まりの知識。いきなり本場英語のリスニングなんて難易度が高すぎる…!
こちらの事情など知りもしない目の前の男は、最初の叫びを皮切りに決壊したダムのように何かを話し続けている。
終いには懐から短い棒のようなものを取り出して切っ先をこちらに向けた。
その行動に明らかな敵意を感じて、あたしは慌てて両手を上げると、日本語で叫び返した。
「あっ!あの、あたし英語は……!」
一方的な叫びに耐えられず、伝わらないと解っていてもそう言わずにはいられなかった。 その時、
パン、と小気味のいい音が響いて、頭がズキンと痛んだ。思わず上げた手を頭に添えてうずくまる。
突然の出来事に、頭を殴られたのかとさえ思った。けれど殴られたにしては、一瞬の後、痛みは綺麗に消えていた。
痛みに閉じた目を開けると、一際強い風が耳元を流れていった。木々のざわめきが一層大きく聞こえる。
しかし聞こえたのはそれだけではなかった。風の音に混じって、言葉が耳に飛び込んできたのだ。
「 おい、答えろっ!お前ここの生徒じゃないな!」
ハッとして頭を上げると、そこにはかわらず男が居て、こちらに向かって英語で叫んでいた。
けれど先ほどまでとは違い、聞きなれないはずのその言葉はすんなりと耳を通過し、意味を持って脳に伝わってくる。
状況を理解できないままぽかんと口を開け、あたしは一瞬放心してしまった。
「おい聞いてるのか!!」
「ぅあっ、はい!すいません聞いてますっ!」
強い口調に思わず謝罪の言葉が出てしまう。こういう低姿勢なところはやっぱり日本人だ。うん、あたしジャパニーズ。
けれど驚いたことに、自分の口から零れた言葉もまた、英語だった。驚いて自分の口元に手を当てる。
不思議な状況だが、つまりあたしはこの一瞬で英会話能力が格段に上昇したらしい。
まったくなんて都合のいい夢なんだ。目が覚めても英語ぺらぺらだったらいいのに。
「お前、俺を強制的にここへ"姿現し"させたのか!?」
「…え?姿……なんですか?」
「魔法を使っただろ!それで俺をここに呼び出したんだ!!俺はちゃんと寮に居たんだ!」
…………ま ほ う ?
思いがけない言葉が耳に届いて、思わずその言葉を繰り返す。聞き間違いかな、と男に向かって首を傾げる。
男は怯えているようだった。こちらに向けた棒を掴む手は僅かに震えている。
恐怖心を必死で押し留めようとこちらを睨んではいるが、その表情は情けなく歪んでいる。
対して、突然の英語力向上ミラクルに改めて「これは夢だ」と確信したあたしは、自分でも不思議なくらいかなり落ち着いていた。
目の前の男に恐怖も感じない。怯えた表情の所為でせっかくのいい男が台無しだ、と口に出さずに考えた。
「杖を出せ侵入者!スネイプ先生に突き出して……!」
「……あのぉ、」
興奮する男の言葉を遮って、発言許可を求めるように片手を上げる。びくりと身体を揺らして、男が一歩後ずさりした。
「杖、って?」
疑問符をつけて放ったその言葉に男は一瞬動きを止め そして今度は、嫌悪とも怒りとも取れるような視線でこちらを睨んだ。
* * *
宙に浮かぶ感覚、というものを知ったのは初めてだった。
ふわふわと定まらない空中で、何が自分の身体を支えているのかもわからない。けれど確かに、重力は感じる。
子供の頃は、よく空を飛ぶ夢を見た。自由自在に身ひとつで空を飛び回る夢。
けれど今回は昔の夢よりもかなり心地悪いものだった。ジェットコースターの、あの落ちる一瞬の浮遊感、あの感じに似ている。
そんなリアルな気持ち悪さを体感して、これは夢だという確信が少し揺らいだ。口元を押さえてその浮遊感に耐える。
「……ちょっと…あの、コレものすごく気持ち悪いんですけど…」
地面から2、3メートルほど離れた場所から、あたしは下に居る人物に向かってそう言った。
綺麗なブロンドの髪が、自分の真下に見える。その人はあたしの声を聞くと、蔑むような視線でこちらを見上げた。
男の目からは先ほどまでの恐怖が消え、代わりにあからさまな敵意の色が見て取れる。
「僕の許可なく勝手に喋るな。黙らないとその口を塞ぐぞ!」
「……………」
嫌悪を通り越した、憎悪ともいえるような視線。その目に思わず口を噤んだ。
足早に歩く男の歩調に合わせて、あたしは空中を移動していた。
こんな状態では振り返ることも出来ないが、既に背後に湖は見えないだろう。足が地面から離れてから、悠に10分は経っている。
男は森を迂回し、城に向かって進んでいた。
最初に身体が浮き上がったときは叫んで慌てふためいたが、暴れては罵られ、暴れては罵られと、そんな状態が5分も続いたところであたしは自分の足で立って歩くことを諦めた。
冷たい風が吹きぬける。薄着の上、風を避けるものもない状態で身体は冷え切っていた。
絶対逃げたりしないから、腕でも何でも押さえて連れてってくれればいいのに……。
何度も口に出して訴えたが聞き入れてもらえなかったことを、再度頭の中で繰り返す。
はぁ、とため息を漏らすと下から鋭い視線が飛んできた。思わず口を噤んで、息を吸い込む。
こんなにあからさまな敵意を向けられたのは、生まれて初めてだ。
これは夢。そう思っていても、向けられたことのないその感情に戸惑ってしまう。…少し、怖いとさえ思った。
城はもう目の前だった。男は大きな扉の前に立つと、ようやくあたしを地面に降ろした。
床石は冷たく、既に冷たくなっている足先を更に冷やしていく。泥まみれだった足は既に乾いていて、土がボロボロとはがれた。
「今から一切声を上げるな。黙ってついて来い……。いいか、絶対喋るなよ」
冷えた身体を少しでも温めようと、両腕で肩を抱える。
そんなあたしの様子など気にもかけずに、男は有無を言わせぬ口調で言った。
一瞬眉を寄せたが、黙って頷く。すると男は手に持った棒を扉の鍵に向けながら、ぐっと扉を押した。
キィ、と蝶番が小さく音を響かせた。男は音を立てないように城の中に滑り込み、あたしもそれに続いた。
中は風こそないが、外と変わらず空気はひんやりしていた。さすが天井は高く、目の前には上へ続く大きな階段がある。
背後で再び高い音がした。男が再び扉を閉じているようだ。
振り返ると男は何も言わずに静かに歩き出した。暗闇に目が慣れないまま、裸足の足音を抑えようとそろりそろりと足を進める。
天井に蛍光灯などの明りはなく、燭台の炎のみが通路を薄暗く照らし出していた。
電気、引いてないのかな。そんなことを考えていると、男はいくつか通路を曲がって、そして階段を降りていく。
薄暗い城の中では、少し離れただけでもその姿を見失ってしまいそうだった。
……これは、本当に夢なんだろうか。
揺れる蝋燭の炎を見ながら、心の中でそんな不安がだんだんと頭を持ち上げ始めていた。
やけにリアルな浮遊感、感じる寒さ、冷えていく手足。どれをとっても夢とは思えないほどはっきりとした感覚。
男から感じる嫌悪感も、この不安も、全てがはっきりとしていて、幻とはとても思えない。
男に視線を向ける。その背中は一定の距離を保ったまま、ただ足早に前を歩いていた。
彼の手、体温、その服の感触、何でもいい。触れたいと思った。
触れて、これが夢なのか現実なのかはっきりさせたい。目の前の男は本当にただの幻で、現実には存在しない人なんだろうか……。
そっと右手を上げて、その背中に手を伸ばす。あと数センチ。そう思ったところで、突然男が向きを変えて立ち止まった。
「スネイプ先生!!」
驚いた身体が一瞬震え、慌てて伸ばした手を引いて胸の前に持ってきた。
気付けばひとつの扉の前にいた。男が扉を拳でドンドンと叩く。
しばらく間があって、扉の向こうで小さな音がした。隙間から光が漏れて数秒後、扉がゆっくりと開かれる。
「こんな時間に何の用だ、ドラコ。消灯時間はとうに過ぎているぞ。もしベッドを抜け出したのなら… 」
低い声が、ぞっとするような冷たさで廊下に響いた。
部屋から現れたのは長身の男性だった。肩ほどまでの黒髪に黒い服。中年…と言うには少し若い印象の男だ。
その男の目が、ドラコと呼ばれた男を見、そしてこちらに向けられた。途端、その目がすっと細められる。
違います!そう言ったドラコが、状況を説明しているようだった。
彼の説明には、こちらが不利になる様な偏った発言が多い気がしたが、それを訂正しようと口を開く気にはなれなかった。
黒髪の男はドラコの説明に耳を傾けながらも、あたしから目を離さなかった。
その鋭い目に、心の中を覗かれているような恐怖を覚えた。まるで、深層心理に侵入されたような、そんな感覚。
「スネイプ先生、この女、マグルです!」
ドラコの言葉がどんな意味を持つのかはわからなかったが、一層細められた男の双眸にあたしは身を硬くするしかなかった。
部屋の中は、よく解らない、ちょっと気持ち悪いもので埋め尽くされていた。
棚や机の上は書類らしい紙やら本やらビンやらで雑然としている。この部屋にも電気はなく、蝋燭の明りが揺れているだけだった。
暖炉も付いていない冷たい部屋の中、2人の男の声だけが聞こえていた。発せられる度に、声は石の壁に反響して響いた。
あたしは、部屋の中心に座らされていた。緊迫した空気の中で、とてもじゃないが居心地のいい状態ではない。
……今、何時なんだろう。そう思って部屋の中を見回す。窓もない部屋の中で、だんだんと目がこの暗闇に慣れてきたようだった。
けれど、壁にも机や棚の上にも、どこにも時計は見当たらなかった。
「今校長に連絡をした。すぐ参られるだろう」
ドラコがスネイプ先生と呼んだ男が、低い声でそう言った。その目は未だこちらに向けられている。
先生、校長 ここは学校なんだろうか。どこの国がこんな立派な城を校舎に使うというのか……世の中理不尽だ。
「湖の近くに居たといったな。杖は持っていなかったのか?」
疑問系で発せられた言葉は、あたしに対する問いかけではなかった。すぐに、隣に居たドラコが肯定の言葉とともに頷く。
「それどころか、杖を知らないと言ったんです」
「所持品は?何を持っていた」
「何も。何も持っていませんでした……先生、こいつはマグルなんですよ!?こんな奴、さっさと先生の判断で 」
「判断を下すのはセブルスではない」
ドラコが声を荒げたとき、戸の開く音と共に凛とした声が響いた。
ハッとして、時計を探してあちこちにやっていた視線を扉の方へ向ける。
そこに立っていたのはかなり年のいった老人だった。長く真っ白な顎鬚は胸の辺りまである。
髪も同じ色で同様に長く、頭の上にはファンタジアに出てくる魔法使いのようなとんがり帽子をかぶっている。
その後ろに老人より少し若い女性の姿も見えた。帽子は被っていないが、老人やスネイプと同じようなの形の服を着ている。
「それに、マグルと決めつけるのはちと早計じゃの」
目はしっかりあたしを見ていたが、どうやらこの言葉もあたしに向けられたものではないらしい。視界の端で、ドラコが驚いて息を呑むのが見えた。
老人の(さっきの会話から察するに、多分校長だろう)その瞳がじっとこちらを見据え、そして柔らかく微笑んだ。
その微笑を見て、緊張でかたまっていた肩の力が少しだけ抜ける。
校長はゆっくりと歩を進めて、あたしの目の前まで来ると膝を折った。その目が、自然と近くなる。
「ふむ……凛として筋の通った、真っ直ぐな眼じゃ」
深みのある穏やかな声。その声はドラコたちとは違い、嫌悪も疑心も見られない声だった。
魔力。その言葉に、あたしは眉を寄せた。魔力だとか杖だとか、まるで本物の魔法使いみたいだ……。
実際、湖から城まで"浮かされて"来た身だ。何となくそんな予感はしていたが、その時は「どうせ夢だし」と深く考えなかった。
「おぬし、名はなんと言うのかの」
半円の眼鏡の奥から、優しい目がそう問いかけた。
あたしは自分の名前を言おうと口を開いたが、寒さからか、その声はひゅっと高い音を出しただけだった。
慌てて咳払いをして、再び声を出そうとする。しかしそれを老人の手が遮った。
震える肩に、老人の手が優しく添えられる。すると、途端に寒さは消え、身体の芯がぽかぽかと温まっていくのを感じた。
驚いて自分の両手に視線を下ろす。その手はもう震えていなかった。
……魔法だ。咄嗟にそんな言葉が脳裏を駆けて、視線を目前の人物へと戻した。
すると老人はおどけた様にウインクし、片手を差し出した。さぁ、どうぞ。そう言われたような気がした。
あたしは口を開いた。
「……です。 。の方がファーストネーム」
「ほう、するとアジア系かの」
「日本人です。今も日本に住んでます」
「どうりで凛としておる。しかし、それにしてはこちらの言葉がかなり達者なようじゃ」
こんなにまともに話を聞いてくれたのはこの人が初めてだ。そう思うと嬉しくなって、あたしは素直に質問に答えた。
「あの……それが、突然話せるようになったんです。彼が現れてすぐに」
「彼は何故あんなところに現れたんじゃろうのう」
「解りません。あたしも気付いたらあの場にいて……それで、あぁ夢だなって思って」
黙って話を聞いてくれる老人を前に、あたしの声は少しずつ小さくなっていった。
こんな話、信じてもらえるだろうか。
「訳がわからなくて、あたし、「だれかたすけて」って呟いたんです。そしたら……」
「彼が現れたと?」
「……はい」
最初は、希望にすら思えた。
彼と目が合ったときは、不安だった気持ちが一気に消えていったような気がした。
ちらりと視線を上げてドラコを見る。その目は未だ疑いを含んだ、冷たい目をしている。ぎゅう、と喉の奥が苦しくなった。
「ふむ……では、」
思案するように顎鬚に手を伸ばして一拍の後、老人が再び口を開いた。
下を向いていた視線を上げてその目を見る。
「これまでに、自分が魔法使いであると自覚したことは?」
「……へ?」
思わぬ言葉に、思いっきり情けない声が零れ出た。
まほうつかい。頭の中でそう繰り返す。自然と、その言葉と目の前の人物達がイコールで繋がれた。
しかし、そこに自分を繋げるまでは至らなかった。あたしは両親も認める冷めた現実主義者だし、これは夢のはず。
「……これは現実、なんですか?あたしの夢じゃ……」
「それはおぬしの心が今をどう捉えるかによるじゃろうな。おぬしが夢と信じれば、それは確かに夢かもしれん」
「…………」
「しかし、たとえもう一度目覚めようと目を閉じても、目覚める場所は今と変わらぬじゃろうて」
遠まわしな言い方だったが、つまりこれは現実だということだろう。
信じがたい状況だったが、この老人の言葉を受け入れる以外に道はなさそうだった。
たとえ本当に夢だとしても、目覚める術が分からないなら現実と同じだ。
しかし、現実となると再び問題が浮上する。あたしが魔法使いであるはすがないことだ。
「魔法使い、って………あ、あの…本気で言ってます?」
「もちろんじゃ。わしは嘘はつかんよ」
冗談は好きだがね。そう言っておどけるようにウインクをひとつ放つ。
老人の表情は終始笑顔だったが、嘘をついているようには見えなかった。
自分にそんな大層な能力があるとは思えないが、それが本当なら突然英語が話せるようになったのにも納得がいく。
「湖はホグワーツの結界内じゃ。優れた魔法使いでなければ、あの壁を越えておぬしをここへ送ることは出来んじゃろう」
「……誰かがあたしをここへ送ったってことですか?」
「さよう。だが警戒することはないじゃろう。おぬしにはどこか懐かしさを感じる」
そう言った老人の目は柔らかく微笑んでいて、こんなにも不思議な状況だというのに自分が安心していくのがわかった。
ふと、周りに居た人たちへと視線を上げる。
女性はあたしと目が合うと同じように微笑んでくれたし、部屋の持ち主は未だ思案しているようだったが、警戒の色は見えなかった。
ただドラコだけが未だ納得がいかないらしく、眉を寄せて不服そうにこちらを見ていた。
「わしはアルバス・ダンブルドア。ホグワーツ魔法魔術学校の校長じゃ。君はしばらくこのホグワーツで預かることにしよう」
ダンブルドアと名乗ったその人は立ち上がり、そっと手を差し伸べてくれた。
その手を取って立ち上がると、ダンブルドアは裸足のあたしに気付いたのか、杖を取り出して一振りする。
瞬く間に、足元にふかふかのスリッパが現れた。再び驚くあたしをダンブルドアが促して、その温かいスリッパに足を入れる。
「ありがとう、ございます…」
「君が何故ここへ来たかはわしが調べておこう。参考までに、ご両親の名前を聞いてもよろしいかな」
「両親……ですか?」
「そうじゃ。あぁ、それからの」
ダンブルドアはぽんと手を打つと、立ち上がるあたしから視線を外してドラコの方へと振り向いた。
突然自分に向けられた視線に、ドラコが戸惑ったのが分かった。背後の棚に預けていた背中が伸び、組んでいた腕は居場所なく体の横に下がる。
そんなドラコに向かって、ダンブルドアはにこりと笑った。
「ミスターマルフォイ、彼女のことは君に任せたいんじゃが」
「「は………」」
ぽかんと口を開けたのはドラコだけではなかった。
あたしは完全に立ち上がる前の、微妙な体制のままダンブルドアを見上げた。ドラコが何か言う前に、その顔が再びこちらに向けられる。
「も、知らぬ者より知った者がいる環境の方が気が楽じゃろう」
「え?あ、はぁ……それはそうですけど」
「興味があるなら、ここにいる間に魔法の勉強をしていくのもよい。必ず役に立つはずじゃ」
「え、ま、魔法を?」
「君がここへ来たのも彼が君の元に現れたのも何かの運命、ひとつの縁じゃ。ほれ、そう考えた方がロマンチックじゃろ?」
「ロマッ………!?」
「なっ……!」
白髪白髭の老人の口から出た「ロマンチック」の言葉に、何とも言えない違和感を覚えてしまう。それと同時に、顔に熱が上がっていくのを感じた。
慌ててドラコの視界から逃れるようにさりげなくダンブルドアの陰に隠れる。今のあたしは、きっと情けなく赤面しているだろう。
頭上でダンブルドアが笑い声を漏らしたのが分かった。
ちらりと視線を向けると、ダンブルドアが満足そうな顔で微笑んでいる。まるであたしの反応を予想していたかのようだった。
おちゃめだ。この人おちゃめだ!歳と髭に似合わずもの凄くおちゃめじゃ!あ、喋り方うつった。おちゃめだ!
そんなことを考えていると、おちゃめなダンブルドアが楽しそうにウインクした。まるで思考を読まれていたようで、少し恥ずかしくなる。
「なぜ僕が!納得できない!大体こいつは 」
そんなバカなことを考えながらダンブルドアを見上げるだけのあたしに代わって、ドラコが抗議の声を上げた。
けれどドラコのその言葉は、ドラコ自身の意思でその先を言わず途切れる。
……たぶん彼は、「こいつはマグルだ」、と言おうとしたのだろう。
これまでの会話から「マグル」という言葉が、魔法使いでない者を指すのだろうという予想はついていた。
けれどダンブルドア曰く、は「マグル」ではなく魔法使い、正確に言えば、魔女なのだ。
「ミスターマルフォイ、彼女は立派な魔女じゃよ。……わしが思うにご両親も 優れた魔法使いと魔女じゃろう」
立派な魔法使い、という言葉を聞いて口を開きかけたドラコを遮って、ダンブルドアがそう続ける。
その言葉が少し責めるような響きを湛えていて、あたしはダンブルドアを見上げた。
「君の言い分も、ある点においては尊重すべき考え方じゃ。しかし他を認めぬことが常に正しいとは限らぬぞ」
これまでにないほど、重みのある声。一瞬、ダンブルドアが怒っているのかとさえ思った。
ドラコもその言葉を受けて、ぐっと口籠る。
しばらく沈黙が流れて、そして、ドラコが折れた。
ダンブルドアの視線を受け止めていられなくなったのか、少し不服そうに視線をずらしながらもゆっくりと頷いた。
* * *
「……君、本当に両親は魔法使いなのかい?」
地下の冷やりとした空気を、ドラコの声が振動させる。
あの後、すぐに懐中時計を取り出したダンブルドアの一声によって、あの場はお開きとなった。
聞きたいことはまだ山ほどあったが、先生方もドラコも明日は授業があるという。我が侭ばかりは言えなかった。
今はドラコに、とりあえずの今晩の寝床へと案内してもらっていた。
少し前を歩くドラコが振り返ってあたしを見る。その表情は未だ疑わしげだが、嫌悪や敵意は消えたようだった。その変化にほっとする。
「分かんないよ。そんな話聞いたこともなかったし……」
「魔法の知識は一切ないんだろう?マグルの中で過ごしてたのか」
「……そう、なると思う。小中学校は普通に通ったし」
「フン……もしも君が純血なら、これからは君もその血に恥じないように振舞ったほうがいい」
その血、と言ったドラコはどこか誇らしげな声だった。
魔法使いの血とそれ以外の者の血が科学的にどう違うのかは解らなかったが、ドラコのまるで魔法使い以外を全否定するような言葉には居心地の悪いものを感じた。何せあたしは、これまでずっとそちら側の世界で生きてきたのだ。
「ここにはその…マグル出身の人もいるの?」
「いるさ。だがスリザリンにはそんな奴いないから、安心していい。他の寮の奴らとは関わらない方がいいだろうね」
「…………」
「マグル生まれの『穢れた血』なんて、さっさと全員追い出すべきさ。君もそう思うだろう?」
さも当然のように同意を求めるドラコ。
先ほどまでの嫌悪感はなく、ようやく対等の立場で話してくれるのは正直うれしかった。
けれどそれは全ての魔法使いに共通する考え方ではないのだろう、とも思った。だからこそ、ダンブルドアは彼を諌めたのだ。
穢れた血。初めて聞く言葉だが、どう捉えても蔑み以外に受け取りようのない言葉だ。その響きには、嫌悪さえ覚える。
湖の畔で杖とは何かを尋ねたときのドラコの心境が、ようやく解った気がした。
「……あなた、マグルに会ったことはあるの?」
「もちろんないさ。当然だろ?視界に入ることを考えるだけで気分が悪くなるね」
考えるだけで悍ましいとでも言うように、ドラコは吐き捨てるようにそう言った。その言葉に眉を寄せる。
「知らない人のこと、どうしてそんな風に否定できるの?」
「はぁ?奴らは魔法を使えない。僕達よりも下級の生物だろ?」
「あたしにはマグルの友達たくさんいるよ」
「それは今まで君が自分の力を知らなかったからさ。知れば考え方も変わるだろう。君の両親が何を思って君に魔法を教えなかったのかは知らないけど、選択を間違ったことだけは確かだね」
気分が悪くなるのはこっちの方だ。そんな言葉が、脳内で浮かんでは消えた。
父母だけじゃなく、今まで生きてきた世界全てを貶されているような気分だ。そう思うと、自然と声に棘がついた。
「あたし、あなたの考え方には賛成できない」
「……穢れた血の中で育ったせいで考え方も腐ったらしいな」
あたしの言葉を聞いて、ドラコは一瞬驚いたように振り返った。けれどその驚きはすぐに消え、その目に再び嫌悪が宿る。
目の前にいる彼は魔法使いで、ひとたびその杖を振ればあたしは反対側の壁まで容易に吹き飛ばされてしまうだろう。
けれど湖で嫌悪の視線を向けられた時のように彼を恐ろしいとは思わなかったし、憎いとも思わない。
ドラコは14歳の少年で、その存在はひどく小さく見えた。
……最初は、希望にすら思えた。
彼と目が合ったときは、不安だった気持ちが一気に消えていったような気がした けれど。
「好きにすればいいさ。……僕は忠告したからな」
冷たい声が、一段と廊下に響いた気がした。
= = = = =