何度もその手に突き落とされる







ふわっと身体が落ちるような感覚に囚われて、あたしは勢いよく目を覚ました。
咄嗟に体を支えようと突っ張った両手は、空しく空を掴む。静かな部屋の中で、自分の心臓だけが朝からやたら煩かった。
……なんか映画でこんな起き方あったなぁ、落ちる感覚で目覚める…的な。何だっけ……あ、そうだ、キックだ。
そんなとりとめないことを考えながら、握った拳を解いて汗を乾かした。

宙に浮くという不思議な体験をしてから、こういう起き方が多くなったような気がする。否、正確に言えば"浮かされる"だが。
ふぅ、とため息を吐いて、あたしは深緑色の天蓋をぼんやりと眺めた。


「…ふぁぁ〜あ……」


自分以外誰もいない部屋で、あたしは大きく伸びをした。
起き上がって時計を確認すると、針は起床予定の時間より5分進んだところを示している。……あぁ、起きなくちゃ。
のろのろとベッドを降りて制服を引っ張り出し、あたしはその足で洗面台へと進んだ。
顔を洗って、まだ頭が覚醒しないまま制服のローブに袖を通す。

このホグワーツ魔法魔術学校へ来て数週間経つ。
本来ならばあたしは6年生として扱われるべき年齢だったが、ダンブルドア校長の配慮で一応4年生ということになっていた。
しかも、あてがわれた部屋は個室。同学年の同性は同室というルールの下、これはかなりの待遇だった。
窓がないのは地下故仕方がないが、こればっかりは入る寮を間違えたかと思う。この部屋にいると、朝か夜かもわからなくて時間感覚が狂う。


「おい」


着替えを済ませ、教科書類が入った大きな鞄の口を開けたとき、ドアの向こうからぶっきらぼうな声が聞こえた。
あたしは一度扉の方へ振り返って、それから鞄を肩に引っ掛けた。


「いい加減に僕を待たせるな。さっさと起きるか、それでないなら早く広間までの道を覚えろ」


朝から不機嫌丸出しの声。その声に慌ててドアを開けた。
廊下は部屋と同じように窓ひとつない石造りで、朝だというのに蝋燭が灯っている。
ドアの前にあったのは、緑色のネクタイに綺麗なブロンドの髪。視線より少し高いところにある灰色の目に視線を合わせて、あたしはにこりと笑った。


「おはよう、ドラコ」
「……行くぞ」


それだけ言うと、ドラコはくるりと踵を返して階段を上っていく。上でクラップとゴイルが彼を待っているのが見えた。
あたしは黙って彼の後ろに続く。
毎朝繰り返される会話。おはよう、と声を掛けるあたしに、同じ挨拶が返されたことは一度もない。

階段を上り、そこにいたクラップとゴイルにも同じように挨拶をする。
彼らはあたしに挨拶される度に、照れた顔で「おはよう」と口を開きかけ、その途端ドラコに睨まれてさっと口を閉じる。
なので結局、彼らとも朝の挨拶を交わしたのは最初の一度だけだった。

そこからさらに階段を上ると、スリザリンの談話室へ出る。ここも暗い石の部屋で、現在人影は少なかった。
廊下に出るとようやく陽の光が少し差し込んで、日光に慣れない目をすっと細めた。
ここから先の道を何度も覚えようとしているのだが、暗くて同じような廊下が続く為、未だに1人だと道に迷って広間へたどり着けない。
だから毎朝ドラコはあたしを迎えにくる羽目になって、そのことでよく文句を言われる。……正確に言えば文句というより嫌味だが。


「ドラコ!おはよう!」
「……あぁ、おはようパンジー」


大広間が近づくと、喧騒は一気に激しくなる。7学年もある生徒全員がこの広間に揃い、がやがやと騒がしい朝食が始まるのだ。
広間の入り口を入ってすぐ、スリザリンのテーブルからパンジーが立ち上がってこちらに向かってきた。
彼女は笑顔でドラコに挨拶をすると、ドラコの腕を取ると同時に斜め後ろにいたあたしに思いっきりお尻をぶつけてきた。
ドン、と衝撃が来て、あたしは思わずバランスを崩す。
……毎度のことだが、彼女のヒップアタックは結構痛い。


「あぁ、いたの?ちっちゃ過ぎて気付かなかったわ」
「……おはよう、パンジー」
「フン、アンタに名前で呼ばれたくないわ」


蔑むような眼差しに思わず苦笑いを零すと、「なに笑ってんだか」と再び鼻を鳴らされた。
「これはあなたの稚拙な行動に対する呆れの苦笑いです」……なんて素直に教えた所でメリットは何もないので、あたしはそれ以上何も言わなかった。
どうも彼女は苦手だ。あたしに対するむき出しの敵対心とドラコに対する好意の裏表の激しさが。
あたしはパンジーに気付かれないようにため息をついて、彼女から少し距離をおいてテーブルに着いた。

2つも年下の子に「ちっちゃ過ぎて」なんて言われるのも、日本人の見た目の幼さが祟ってのことだろうか。
パンジーはあたしよりも拳ひとつ分大きかったし、顔立ちも彼女の方が大人びている。
実際同年代と比べてもあたしの身長は平均より少し下なだけだ。顔だって日本では年相応の、一般的な女子高生。
けれどここでは、あたしはせいぜい2年生程度にしか見られない……つまり、12歳だ。
喜べばいいのか悲しめばいいのか…。あたしは朝食のミルクを飲みながら、はぁぁっと大きくため息をついた。


ホグワーツへはじめて来たあの日。あたしは好きな寮を選んでいいと言った校長先生に、迷わずこう応えた。
「 ドラコと同じところへ 」
当然といえば当然の選択だっただろう。知り合いはドラコだけだったし、ダンブルドアは彼にあたしを任せると言ったのだ。
けれど、ここでの暮らしも数日が経ち、少しずつ解ってきた事もある。
この寮     スリザリンは他の寮からの評判がかなり劣悪だ。

あたしは朝から重たい食事(チキンやらポークやら、とにかくやたらと肉が多い)が並んだテーブルから視線を上げた。
広間の一番右端に位置するスリザリンのテーブルからは、他の寮の生徒達もよく見えた。
ハッフルパフ、レイブンクロー、グリフィンドール。どの寮生も、スリザリン生よりは遥かに友好的、社交的なタイプが多い印象だった。
対して、スリザリンの生徒は陰険で陰湿で優越感の塊のような奴が多い。日本人的には一番付き合いづらいタイプだと思う。


「ドラコ、そろそろ行きましょうよ。授業に遅れるわ」
「あぁ、そうだな」


パンジーのそんな声が聞こえてきて、あたしは口の中に含んだパンを慌てて牛乳で流し込んだ。
ごくん、と飲み終わると同時にドラコがこちらを見て、そして短く言う。


「昼に遅れるなよ」
「ん。大丈夫、昼まではずっとここに居るから」
「……今日は南の塔へ行く」


歩き出したドラコの隣をキープしたまま、パンジーがこちらを鋭い目で睨む。
毎朝のことなのでさして気に掛けず、あたしはちらりとこちらを振り返ったクラップとゴイルに手を振った。
つられるように手を挙げた2人に笑いかけて、そのまま4人が広間を出るまで見送る。
同じように、テーブルのあちこちで立ち上がって広間を出ていく人影が多数見えた。朝食を食べている人はもう殆どいない。


ホグワーツの制度や教習学科のあらましは、初めにマクゴナガル先生から教えて頂いてあった。
今あたしはドラコ達と朝昼夜食事を共にし、授業時間中は手の空いた先生方に基礎魔法を教わったり、借りた教科書で勉強をして過ごしている。
ドラコと一緒に授業を受けられればいいのだが、4年生の授業にはまだついていけないだろうと校長が下した判断だった。

授業がある日の昼食の後には、ドラコに校内を少しずつ案内してもらうことになっている。
案の定ドラコは嫌な顔をしたが、そのダンブルドア校長のお達しを彼に伝えたのがスネイプ先生であった為か、彼は渋々引き受けてくれた。
城内は複雑な造りの上、気まぐれな階段がいつの間にか場所を移動していたり、絵の中の人物が自由気ままにお出かけしたりしているので、目印を見つけることさえ一苦労だ。
流石大きいだけあって、この城の全てを見て廻るには在学中の7年間では足りないとさえ言われている(って、マクゴナガル先生が言ってた)。

既にかなりの場所を案内してもらったが、あたしの頭はスリザリン寮から広間までの道さえ覚えられないのだ。
複雑怪奇な城の地図など、到底頭に入るわけもない。
それでも、城の中を案内してもらうのは楽しかった。
案内中のドラコは始終不機嫌そうだったが、あたしが質問をすると、案外律儀に答えを返してくれる。それが素直に嬉しかった。


「……っさて!」


そんなことを考えている内に緩んでしまったらしい頬を叩いて、あたしは気合いを入れた。
目の前の皿に乗ったパンをひとつ掴んで、グラスに残ったミルクを一気に煽る。
すでにテーブルについている者はあたし一人だった。グラスをテーブルに戻すと、それを合図に、テーブル並んでいた数百の皿が一斉に消えた。
それが完全に消えるのを待って、手に持ったパンを銜えた。
鞄からいくつか教科書を取り出すと、ぐっと伸びをして、あたしは教科書を開いた。







  
 * * *







昼までの時間は、いつもあっという間に過ぎた。
魔法学校の教科書は思った以上に面白く、最近は読みふけっている内にいつの間にか広間が賑わいだしている。


いつもなら喧騒が大きくなるまで昼食の時間に気付かないのだが、今日は少し様子が違った。


「ねぇ、ちょっと!」


背後から聞こえた声が自分に向けられているとようやく気付いたのは、その呼びかけが1度目、2度目の呼びかけより少し声量を上げたときだった。
手元の教科書に向けられていた視線を上げて、座ったまま振り返る。
そこに仁王立ちしていた予想外の人物を見上げて、あたしは思わず首を傾げた。
不機嫌丸出しの顔で立っていたのは、もちろんドラコではない。そしてその脇に控えている数人も、もちろんクラップゴイルではなかった。


「早いね、パンジー。ドラコは?」
「気安くファーストネームで呼ばないでよ。ドラコだってあんたに名前で呼ばれるの嫌がってるわよ」
「…………」
「まぁいいわ…。ちょっと話があるの、もちろん一緒に来てくれるでしょ?」


彼女から声をかけられることさえ珍しいというのに、にっこりと笑顔付きでそんなことを言われたら、珍しいどころの話ではない。
時計を確認すると、時間は昼食が始まるギリギリの時間だ。
お約束的な展開を想像して、あたしは心中でため息をついた。……ドラコが昼食を終えるまでに戻れればいいけど。

テーブルに散らかっていた教科書を鞄の中に突っ込んで、あたしは真っ直ぐパンジーを見上げた。






これがいわゆる、女子的集団いじめというものか。

有名だけど、自分が当事者になる日がこようとは夢にも思わなかった。日本もイギリスも同じようなことやってんのね。
自分でも意外なほど冷静な頭でそう考えて、あたしはドラマの中のよくあるヒロインを思い出した。
たとえば、超格好いいモテモテ男子の冴えない幼馴染とか、そういうお決まりのパターンだ。
理不尽な理由で因縁をつけられて、嫉妬の掃出し口にされる地味〜で大人し〜い女の子と、ミーハーな女子集団。


「アンタが近くにいるとドラコが迷惑するのよ」


ただひとつこの状況でドラマと違うところは、苛める側の言い分が正しいってことだろう。

連れてこられたのは中庭の一角だった。普段から人があまり通らず、外に設置された温室からも見えない場所だ。
あたしは黙ったまま、自分より少し背の高いパンジーを見上げる。


「突然現れて……純血らしいけど、殆どマグルと同じじゃない。魔法なんて何にも知らないくせに!」


大声で捲し立てるパンジーは、思いを言葉にして発する度に怒りが高まっていくようだった。
ドンと勢いよく突き飛ばされてあたしは尻餅をついた。その衝撃に思わず閉じた目を開くよりも早く、鼻先にパンジーの杖が突き付けられる。
この行動には流石に身を固くした。あたしの反応に気付いたのか、パンジーは得意そうに鼻で笑う。


「ドラコの家のこと知ってるの?マルフォイ家はアンタみたいな小猿が近づいていい家柄じゃないのよっ!!」


途端、杖先が光ったかと思うと、次の瞬間あたしは地面に倒れていた。
耳鳴りと共に鋭い痛みが頭を襲う。思わず両手で頭を抱え込んで、湧き上がる嘔吐感に思わず咳き込んだ。
頭上から聞こえる笑い声さえ、まるで拡張スピーカーを通した様な大音量で脳を揺さぶる。
ぐらぐらと揺れる視界の端で、パンジーが何か言ったような気がした。その言葉すら、意味を持たない騒音にしか聞こえない。

両手を地面について、上半身を支える。
お腹に力を入れると同時に、胸の辺りから何かがせり上がってくるような不快感を感じた。


「う、ぇっ……!っゲホッ、ごほっ…」
「何とか言ったら?それとも、高度な攻撃魔法は小猿ちゃんには早すぎたかしら?」
「………っ」


込み上げる不快感を吐き出して視線を上げると、杖は未だこちらを向いていた。
その杖が、ものすごく恐ろしいものに見えた。便利な道具があったものだ。例え人を殺しても、その手は痛くも痒くもないんだろう。

ギュッと拳を握る。その手は杖も持っていないのに、爪が食い込んで少し痛かった。
自分の手に、彼女に対抗できる力がないことが悔しい。けれど同時に、それでよかったとも思えた。
こんな風に使う魔法なら、あたしは要らない。


「……顔だけ大人でも中身はガキね、パンジー」


悔し紛れでそう言うと、パンジーが笑みを引っ込めた。
その瞬間、ものすごいスピードで身体が地面から引き剥がされた。

杖が光る。今度は校舎の壁まで吹っ飛ばされた。これも、あたしの知らない呪文だ。
     この呪文、ドラコは知っているんだろうか。背中を走る痛みに耐えながらそんなことを思った。
同じ状況だったら、彼もパンジーと同じようにあたしを邪魔だと言って吹き飛ばすだろうか。倒れたあたしを蔑み、同じように笑うだろうか。
その手は、例え誰かを殺しても、平然とその杖を握り続けるのだろうか    


「まだ分かんないの!?場違いなのよアンタ!」
「…………」
「さっさとあのイカレた校長に言ってきなさいよ!『もうお家に帰りたいですぅ』って!」


向けられる罵声が突き刺さる。その言葉一つ一つが、あたしの中の不安を大きくしていった。
まるでそれが、ドラコ自身があたしに向けた言葉のように思えた。
自分に向けられた嫌悪の目が、向けられた彼の杖が、脳裏に蘇ったまま消えない。消えて、くれない。


「いい加減消えてよっ、邪魔なのよ!ここに居なきゃいけない理由もないんでしょ!?」


その通りだ。

どうしてあたしはここにいるんだろう。校長先生に頼んで、空港にでもどこでも送ってもらってさっさと帰ればいい話なのに。
高校はもうすぐ中間試験の季節だし。急にあたしがいなくなって、友達だって心配しているかもしれないのに。
わざわざこんな嫌な思いをしてまでここに留まる理由なんて、最初からないのに。
あなたに迷惑をかけてまで、ここに留まる理由は何だろう。

疎みながらも、あたしの問いに答えてくれることを嬉しいと思うのは何でだろう。
名前で呼ばれることさえ煩わしいのなら、あたしの事なんて放っておけばいいのに。なのに、どうして毎朝迎えに来てくれるの。
挨拶も返してくれないのに、どうしていつもあたしが昼食を食べ終わるまで向かいで待っていてくれるの。
あたしが、彼のその行動ひとつひとつが嬉しくて、泣きそうになるのはどうしてだろう。
たぶん、理由なんて最初からひとつだ。ダンブルドアが言っていたとおり。きっと、あたしは、

あたしは、ドラコが、




「パンジー」




やけに落ち着いたその声が場違いなほどその場に響き、あたしの肩を揺らした。
勢いよく顔を上げると、パンジーの背中の更に向こう、少し離れたところにその姿が見えた。


「ドっ、ドラコ…!」
「…………」


その姿は逆光で、あたしのいる場所からは彼の表情は読み取れなかった。
ただ、その声がとても冷ややかだった事と、隣にいたクラップとゴイルが挙動不審にドラコとパンジー、そしてあたしを見つめているのがわかった。
パンジーは怯えるように彼の名前を呼ぶと、自分の手に握られたままだった杖に気付いて、それを慌ててポケットに隠した。
そしてさり気なくドラコとあたしの間に立って、彼の視界からあたしを追い出そうとする。

あたしは両肘で上半身を支えたまま、目じりが熱くなっていくのに気づいて慌てて下を向いた。
……助けに来てくれた。無意識のうちにそんな言葉が勝手に脳を駆け回って、握った拳が緩む。
泣き顔を晒すのが恥ずかしくて、きゅっと目を瞑って涙を退かす。そして顔を上げて口を開こうとしたその時、


「…薬草学の授業が始まる。遅れるぞ」


冷たい声が、もう一度響いた。それと同時に、ざっと土を踏みしめる音。

遠ざかっていくいくつかの足音を耳の奥で聞きながら、あたしは顔を上げることが出来なかった。
顔に上がった熱はさっと消え、身体も指先も喉の奥も、すべてが冷えていく。
唯一熱を持った脳だけがこの状況を完全に理解していて、もういっその事このまま冷えて死んでしまえばいいとさえ思った。

開きかけた拳に再び力が入った。さっきよりも強く、爪が掌に食い込んだ。

少しでも、助けを期待したあたしがバカだった。


「……っぅ…」


体中を襲う痛みと、ぐらぐら揺れる脳の中に唯一残った虚無感。
あたしは痛みに流されるまま、その頭も地面に預けた。もう、誰の足音も聞こえなくなっていた。

涙は出てこなかった。







   
* * *







気が付いたら、目の前に広がる白い天井は夕日で薄暗い朱に染まっていた。
その色を見つめながら、あぁ、あたしはやっぱり眠ってしまっていたんだ、とぼんやり考えた。目を閉じて、柔らかい布団と枕に沈み込む。
ずいぶん長い間、眠っていた気がする。妙な夢を、見ていたような。けれど寝起きの働かない頭では、どんな夢だったかも思い出せなかった。

ふう、と息を吐くと、冷たい空気が肌を刺した。頭上に視線をやると、大きな窓が少し開いている。見慣れない窓だった。
体を起こそうと腕に力を入れたとき、隣でカタカタと音が聞こえた。


「あら、目が覚めたんですね。気分はどう、ミス ?」
「……マダムポンフリー…?」


銀色のトレーにいくつか小さな瓶を乗せたマダムポンフリーが、あたしと視線を合わせるとにっこり笑った。


「身体はすっかり大丈夫ですよ。さぁ、気分がいいなら身体を起こしてこれを飲みなさい」
「マダム、あたしどうしてここに…?」
「ウィーズリーの双子が貴女を運んできたんですよ。中庭で倒れていたそうじゃない」


聞きながら体を起こすと、思いのほかすんなり起き上がることが出来た。頭や背中の痛みも、今はまったく感じない。
……本当に、魔法というのは便利だ。
傷も消え、包帯さえ巻かれていない自分の体を見てそう実感する。


「「マダム、彼女目ぇ覚ましたー?」」


その時、医務室の扉が開いて、2つの頭がひょっこりと顔を出した。
マダムポンフリーが呆れ顔で「えぇ、ミスターウィーズリー」とため息交じりに答える。
同じ身長に同じ声、同じ顔の2人があたしを見てにっこりする。あたしは慌てて、自分をここまで運んでくれたという2人に頭を下げた。


「あ、ありがとう、えっと……ウィーズリーさん?」
「俺はフレッドで、こっちがジョージ。君、最近スリザリンに編入してきた子だろ?」
「よくあの陰険マルフォイと一緒に居るよね」


陰険マルフォイ。そう聞いて、脳裏をよぎる冷たい声。
思わず拳に力を込めて、それを隠すように小さく笑う。痛みは消えたはずなのに、頭がまたぐらぐらと揺れた気がした。


「君って全然スリザリンっぽくないからさー、他の寮じゃちょっとした有名人だったんだぜ?」
「えっ、そうなの?」
「君さ、うちの弟が廊下で鞄ぶちまけたとき、拾うの手伝ってくれたんだろ?」


そう言われて、視線を漂わせながら記憶を探る。
その時、目の前の2人の赤い髪が視界に入って、あたしは「あっ」と声を出した。

ホグワーツへきて10日も経たないころ、廊下を歩いていると、目の前でいきなり男の子の鞄の底が抜けたことがあった。
驚くあたしに反して笑うドラコたちと、それを睨む他の生徒。確か、グルフィンドール生だったと思う。
衝撃で蓋の空いたインク瓶が落ちた教科書を染めていくのを見て、あたしは思わずその教科書を拾い上げたのだ。
その頃はまだスリザリンの悪評を知らなかったから、黒く滲んだシミをふき取ってその男の子に渡すと、ひどく驚かれたのを覚えている。


「あの赤毛の男の子?」
「そ。ロンって言うんだけど、そのロンが寮で君のこと話してるの聞いてさ」
「『信じられるか?スリザリンの子だぜ!?明日はきっとカエルチョコレートが降ってくるよ!』」
「さあ、ミスターウィーズリー!もう十分でしょう、授業に戻りなさい!」


おそらく、その子の真似をしたんだろう。大げさに身振り手振りを交えるその行動がおかしくて、あたしは思わず噴出した。
けれどその笑いは、マダムポンフリーの鋭い声でかき消された。授業。その言葉を聞いて慌てて時計を確認する。


「ごめんね、あたしの所為で授業遅れちゃって…!」
「気にするなって。どうせ『魔法史』だったし」
「そうそう、君と話せてよかったよ」
「スリザリンにいるのが勿体ないな。いっそグリフィンドールに入り直しなよ」


明るい声でそういう双子に、再びマダムのお叱りが飛ぶ。どうやら慣れっこのようで、2人は肩をすくめてひらひらと手を振った。


「それじゃまたね」


扉のむこうで手を振る2人を前に、マダムがぴしゃりと扉を閉める。それと同時に、医務室は静かになった。
マダムは扉に向かって一度ため息をつくと、いつもああなんだから、と小さく呆れたように呟いた。
それを聞いてあたしは笑う。彼らのおかげで、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。


「さぁミススズナリ、これを飲んで。もう少し横になりなさい」


笑ったあたしを一度睨んで、マダムポンフリーがトレーに乗った瓶をひとつ持ち上げる。
差し出された小瓶を受け取って、あたしは素直にそれを煽った。








日が暮れるのが早い。少しの間横になっていただけなのに、すでに日は沈んで蝋燭が灯されていた。
窓の隙間から入り込んでくる風は冷たく、髪を靡かせて首筋を冷やす。ここが自分の生まれ育った地ではないことを実感させられる。
枕を立ててそこに背中を預けた状態で、あたしはふぅ、とため息をついた。……これから、どうしようか。
漠然とそんなことを考えながら膝を抱える。膝に額を預けてため息をつくと、お腹がくぅぅ、と音を立てて空腹を訴えた。
慌ててお腹を押さえて、その音をかき消すようにシーツを肩まで被った。枕に背中を凭れかけて、近くにマダムポンフリーがいなかったことに安堵した。

思い返してみれば、昼から何も食べていない。
ようやく収まった腹の虫に安堵しながら、こんな心境でもお腹は空くんだな、と自分に呆れた。



「……お腹すいたなぁ、」
「夕食はとっくに終わったぞ」


ぽつりと呟いた独り言に予想外にも答えを返すものがいて、あたしは驚いて飛び上がった。

マダムポンフリーの声ではない。もっと低くて、幼くて、ため息交じりの声。
慌ててドアの方へ振り向くと、開いた扉の向こう側にプラチナのブロンドが見えた。


「ドラコ!?」


思いもよらないその姿に、思わず大きな声を出してしまった。
途端、ドラコが鬱陶しそうに目を細める。そこでようやく自分の声量に気付いて、あたしは右手で口を押えた。
ドラコは医務室に一歩入って後ろ手に扉を閉めると、そのままその扉に凭れかかった。その行動理由がわからなくて、あたしは黙ったままドラコを見つめた。


「今日は入院か?」
「あ……ううん、マダムは気分さえ良ければもう、……帰っていい、って」


寮に、と言いかけてその言葉を押し留める。
去るべきなのはこのベッドではなく、ホグワーツだと言われたら、一体あたしはどうするんだろう。
あたしがここに残る意思を告げて、それを否定されるのは正直怖かった。


「……なら、さっさとベッドから降りてくれ」


けれど返された声は思っていた以上に柔らかい声で、あたしは目を丸くした。
ドラコは医務室の扉を開けて、廊下に出る直前で振り返った。まるで、あたしがベッドを降りるのを待っているようだ。
思いがけない言葉と行動に呆然としたまま動かないあたしに、再びドラコが口を開こうとする。
……もしかして、


「迎えに来てくれたの…?」


その言葉に、口を開きかけたドラコがピタッと止まる。その行動は、誰がどう見ても肯定の意だった。
一瞬、ほんの一瞬の間をおいて、そしてドラコがじっとあたしを睨む。


「君、ここからスリザリン寮に1人で帰れるのかい?」
「え?あ………帰れません…」
「迷子になりたくないならさっさとついて来い」


それだけ言って、ドラコは今度こそ後ろを振り返らずに歩き始める。
その姿がドアの陰に消えて、あたしは慌ててベッドを出て靴を履いた。簡単にベッドを整えて、そしてドラコの後を追うように医務室を出る。

ドラコが消えた方へ視線をやると、その後ろ姿はすぐに見つかった。少し小走りでその背中を追うと、すぐにその隣に追いついた。
いつものように足早ではなく、ゆっくりと歩くドラコ。それが嬉しくて、今度こそ本当に目尻が熱くなるのを感じた。
ありがとう、そう言おうとして、そしてふっと言葉を飲み込む。ドラコの横顔を見上げて、そして、言い慣れない言葉を紡いだ。


「……ミスターマルフォイ」


ぽつりとそう呼びかければ、その声はしっかり届いていたらしく、ドラコが怪訝そうな顔で振り向いた。


「そう呼んだ方がいい?」
「急に何だ?」
「いや……嫌がる相手を無理に名前で呼び続けるのは如何なものかっていう指摘を受けたから」


そう言うと、ドラコは一瞬目を丸くして、そしてバツが悪そうに視線を逸らした。
思わぬ反応にあたしがその顔を覗き込むと、さらに反対側へとドラコの視線が逃げる。


「ミスターマルフォイ?」
「……長い。ドラコでいい」


あたし以上に小さな声で、ドラコがそう呟いた。
それが嬉しくて、本当に嬉しくて、あたしは喉の奥がぎゅう、と苦しくなるのが分かった。
彼はまだ視線を逸らしたまま。けれど歩調はゆっくりで、あたしに合わせて歩いてくれているのかと、そう思ってしまう。
その優しさの理由も見えないまま、それでもそれが嬉しくて、あたしは右手を額に当てた。溢れ出た涙が、少しだけ廊下に落ちた。


「ありがとう、ドラコ」


ここに留まる理由なんて、最初からひとつだ。
きっとあたしは、最初から、







この人を好きになってた


= = = = =