この世界に落ちてきて早幾年。
武力がある訳でもなく、優れた軍略が練れるという訳でもない私に出来る事は特にない。 文字も読めない為にあからさまに「使えない奴」みたいに見られる事は頻繁にあったし、存在を許されて いるからと言って、全てが許された訳じゃない。

でも、この世界に落ちてきた理由も分からないから、どうにかして元の世界に戻ろうともあまり思わなかった。 突然ここにやって来たのなら、いつか突然帰れるはずだし、というのが私の見解である。
それで良いのだ、と信じていた私の目の前に現れた人がいた。・・・めっちゃ見てる!こっちめっちゃ見てる!



「あー・・・あの、非常にやりにくいんですけど」
「君、今度から入ったっていう子?」



やりにくい上に話を聞かない。
この世界の連中はみんなそうなのか?と思わせるくらいに話を聞かない。
出来る事が無い為に適当に庭の掃除などをして時間を潰している訳だけれど、そこにふらりと現れた人が さっきからじっとこっちを伺っている。 しかも満面の笑みで。もう一度言うけれど、かなりやりにくい。どっかに行ってくれないかな、この人。



「ふぅん・・・ふーん、へぇ、」
「・・・・・」



箒を止めて、その人の顔を見ればにっこにこの笑顔。それは崩れることなく私の眼を捉えている。
普通にしていればいいのに、なんでこっちを見る。構わないでくれればそれが一番良いのに。 なかなかそうも言っていられないらしい、こっちを見ては何度か頷いている。
聞いてみたくなる気持ちがどんどん沸いてきてしまったので観念して聞いてみる。



「・・・なんなんですか?」
「やっと君から話しかけてくれたね。待ってたんだ」
「・・・あなたは、この軍の人間ではない感じがするような・・・気のせいかもしれないですけど」
「その通りだよ。俺は曹孟徳」
「曹孟徳?・・・ああ、そういやここに来るって言ってたような・・・なんでこんな所に」
「ちょっと野暮用でね。つまらない書類仕事よりも実際に動いた方が何倍も楽しいしね」
「それはそうですね、私も頭を使う事よりは掃除してた方が好きですよ」
「本当に?それは気が合うなぁ、嬉しいよ」



へらぁ、っとした笑顔が表情いっぱいに広がる。
あ、本当の笑顔だな、と直感で思った。無駄ににこにこしているうちの都督さんよりずっと分かりやすい。
それにしても曹孟徳、ってもうここに来ていたのか。到着はあと1日掛かるって言われていたのに随分と 早いお付きだ。それにしてもなんでここに。というかなんで私に構うんだろう。
その事に関して仲謀から嫌と言うほど忠告を受けて「部屋に籠ってろ」と 言われていたのに、いきなり会ってしまった。ごめん、仲謀。 会ったものはもうどうしようもないしね、うん、しょうがない。心の中で謝っておこう。
・・・ああ、仲謀の小言が今からでも浮かぶようだ。うへぇ。



「ところで、 ちゃん。今からお茶しない?」
「いや、掃除をしたいので。残念ですが」
「即答かぁ。そんな事言わずに、どう?」
「そんな事よりもなんで私の名前知ってるんですか?」
「知りたい?じゃあお茶しようよ。文若がうるさいから最近ろくに息抜きも出来なくてね」
「・・・はぁ」



孟徳さんに手を引っ張られて引きずられる様にして庭を横切って、客間のひとつに連れ込まれる。
うわぁあ、強引だよ。話聞かない上に強引だ。 まぁ偉い人だから無下には出来ないってのもあるけども。
連れ込まれる、ってかなり怪しい表現だけど、実際その通りの 状況だ。公瑾さんが見たらまた説教に違いない。「あなたはもうちょっと自覚して欲しいものですね、うんたらかんたら〜」 ぶっちゃけ公瑾さんが言う説教は最初の文くらいしか聞いてなくて、他は受け流し状態なのだけれど。 まぁ、言わんでもいい事まで言ってくるからそうなってしまうのだ。お前は私のおかんかなにかか!と 口には出さずとも思ってしまう。外見年齢が若く見えるせいか、ちょっと過保護すぎるんだよなぁ。



そんな事を考えている間にあれよあれよと言う間に、椅子に座らされていい香りのお茶が入る。
お湯を入れた時の香りの広がりはとても好きだ。 ここは中国茶が多いけれど、日本茶、紅茶も大好きだ。
どれも・・・ここにはないけど。



「はい、どうぞ」
「すいません、なんか淹れてもらっちゃって」
「いいのいいの。気にしないで、俺が入れたかっただけなんだから」
「ありがとうございます。・・・いい茶葉使ってますね、良い香りです」
「これ俺のお気に入りでね。わざわざ持ってきてたんだ」



そうなんですか、とその茶を口に持っていく。
あー、饅頭食べたくなる。そういえば夢中でやっていたせいで、とっくに昼を過ぎて お茶の時間になっていた。手元の時計に目をやれば3時を過ぎていた。
ちょうど休憩出来て良かったかもな、と思いながら時計から眼を離せば、またしても興味津津な 顔がそこにはあった。思わず身体を引いてしまうくらいに、彼は身を乗り出して時計を見ていた。



「・・・興味、あります?」
「うん、実に興味深いものだね。それは、君の故郷のものかい?」
「ええ、皆持っていますよ。時刻を知る為の道具です」
「ふーん、凄いなぁ。そんなものをみんなが持っているなんて」



感心しきり、といった様子でそう言うので、腕から外して渡す。 いいの?と首を傾げて尋ねる様子は、男の人に言うのはおかしいかもしれないけど、少し可愛い。 ちょっと笑いがこぼれた。
その時、孟徳さんの時計を受け渡す手が止まった。なんだろう、なにかあったのか?と思って、 孟徳さんと同じように首を傾げてみると、真面目な顔をして手首をぐっと掴まれた。な、なんか駄目な事した?! この時代の人の事は良く分からない。良かれと思ってやったことが実は不敬に当たる事もあったりして、 なかなか、生粋の現代っ子には厳しいところがあるから。一応注意はしてたんだけど。
きたる言葉を緊張しながら待ってると、孟徳さんは真面目な顔のまま顔を近づけてこう言った。



「・・・ねぇ、ちゃん。俺の所に来ない?」



疑問系でも孟徳さんの場合はもうすでに彼の中では決定が下されている。
さっきでそれを嫌という程 知っていた私は、いやぁ、それはちょっとどうでしょうかねぇ、などと曖昧な事を言いながら身体の距離を 離す。近いのは別にいいんだけど、この無駄な圧迫感はなんだろう。



「駄目かな?・・・とってもいいと思うんだけど」
「はぁー、えと、分かると思うんですけど、私役に立ちませんよ」
「それはどうかなぁ。自分の事を過小評価しすぎるのは良くないよ」



身体の距離を離したのに、また詰め寄ってくるのはなんだろう。
曖昧な言葉を連ねて、なんとか諦めてもらうようにするけどかなりこの人しつこい。 ぐいーっと身体を押すものの、なかなか離しては貰えない。内心悲鳴をあげているけれど、 この手の人間には弱い所を見せるとそこから這い上がる様に来る。
努めて冷静に対処することが大切だ。いやでもこの人偉い人なはずなのに、こんなスキャンダルに なりそうな現場作ってもいいのか?とふ、とそれが頭の中を過った時だった。



「失礼いたします。丞相、軍議の時間が・・・・っ、し、失礼しました!」
「は?」
「・・・あらら、勘違いされちゃったね」



そう思った時にこの始末だ。 あらら、じゃない!完璧誤解じゃないか!
あの兵士さんも冷や汗だらだらだった、すっごいスキャンダル発見!みたいな顔してたもの。 やっばいなぁ、と思うものの、距離は離れない。この人に謀られたかも、軍議の時間は最初から分かってるはずだし。
もうすでに孟徳さんと会っている時点で仲謀と公瑾さんの言いつけを破っている。それだけでもヤバいのに・・・!
冷や汗だらだらな私とは対照的に孟徳さんはにっこにこ笑顔だ。 心なしか腕に込められた力が強くなったような・・・・。



「君の事をずっと見ていたんだ」
「名前の理由とかもういいです。今更ですよ」
「つれないなぁ。・・・君を見てるとなんだか和むんだよね」
「それはそれは・・・ありがとうございます」



悔しくなって、最高の笑顔で返してやれば、向こうも最高の笑顔で返してくる。
本当に食えない人だ。そんな孟徳さんに捕まってしまった私に、はたして逃げ道は用意されているのだろうか。
遠くの方から仲謀が怒っているような声が聞こえてきて、・・・・・まぁ、それは事実現実な訳でしたが。
それでも離されない腕をえいや、と振り払おうとしている時に兵から受けた報告を聞いた仲謀が部屋に飛び込んで 来たのは、それから数分後の事だ。 ・・・・酷く怒られたのは言うまでもない。
なんで私を怒るんだよー!確かに約束破ってごめんなさいだったけど、 そんないきなり現れた人に対処できないよ、と思いつつ、口には出さない。口に出すとさらに怒られるので。 ごめんごめんとひたすら呟く。

でも私は知らなかった。
孟徳さんの言葉が全てにおいて真実である事も、 ・・・・なんでこんな事に、と肩を落としながら説教を受ける私を、またしても遠くから孟徳さんが見ていた事も。












 警告:君のハートが狙われています






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